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傘寿を迎える国会議事堂


2016年9月1日
丹羽文生


東京都千代田区永田町1丁目7番1号・・・。そこに堂々と聳え立つ国会議事堂は、まさに日本政治を象徴する建物と言えるでしょう。しかし、実際に足を踏み入れたことのある人は、それほど多くはないと思います。大半は小中学校の社会科見学か修学旅行で訪れ、赤絨毯を踏んだという微かな記憶がある程度ではないでしょうか。

正面に向かって右に参議院、左に衆議院が配置されており、ピラミッド型の屋根の中央塔は、法隆寺の五重塔が収まるほどの高さと広さがあります。この中央塔の真下にある広間の4隅には、自由民権運動のリーダーたる板垣退助、政党内閣初の首相である大隈重信、初代首相の伊藤博文の銅像が立っています。

ところが、なぜか4つ目の台座には銅像がありません。彼らに並ぶ大物が見当たらない、あるいは「政治なるもの」に完成はない、すなわち「未完の象徴」という意味が込められているとも言われています。

議事堂は、議会開設以来の悲願でしたが、完成するまでの半世紀の間、ずっと仮建築のままでした。最初に建てられた第1次仮議事堂は、第1回帝国議会召集日前日の1890年11月に竣工しました。

ところが、それから僅か2ヵ月後、漏電によって出火し全焼してしまいます。当時、貴族院議長だった伊藤、首相の山縣有朋は自ら現場に向かって消火に当たったそうです。その後、貴族院は華族会館(旧鹿鳴館)を経て帝国ホテルに、衆議院は東京女学館(旧工部大学校)に移転しました。1891年10月、ようやく第2次仮議事堂が建てられますが、1925年9月、再び火の不始末で消失し、それから3ヵ月後、作業員の不眠不休の努力により、短期間で第3次仮議事堂が完成しました。

日清戦争中の1894年10月には、大本営が広島城内に移されたため広島臨時仮議事堂が設けられ、ここで第7回帝国議会が8日間、開かれたこともありました。一説によると、この広島臨時仮議事堂の跡地は、半年前まで軍用馬の馬小屋があったためか、蠅の音が煩く、議員勢は一刻も早く東京に戻るべく審議を急いだそうです。

今の議事堂は、大正デモクラシー期の1920年1月に地鎮祭、6月に鍬入れが行われ、19年の歳月を経て、1936年11月7日、竣工式が催されました。「オール国産」を基本方針に建てられたため、中も外もドアノブ(アメリカ製)、郵便投函筒(アメリカ製)、ステンドグラス(イギリス製)以外は全て日本で調達されました。総大理石造り故、柱や壁にはアンモナイトの化石まで埋まっています。

議事堂の竣工式には、約3,000人もの人々が参列しました。中央玄関前に特設ステージが設けられ、貴族院議長の近衛文麿、衆議院議長の富田幸次郎に続き、首相の広田弘毅がスピーチに立ちました。ところが、広田が壇上で祝辞の稿を広げた瞬間、突然、雨が落ち、その後、本降りとなり、竣工式後に行われた祝賀会は、土砂降りの中で開かれました。

折しも竣工式の8ヵ月前に2・26事件が発生し、永田町一帯が血で染まりました。竣工式での大雨は、まさに激動と波乱に満ちた日本政治の幕開けを象徴するものとなったのです。

余り大きな話題にはなっていませんが、今年は議事堂が完成して、ちょうど80年です。「白亜の御殿」は今日の日本政治の状況を、どんな思いで見詰めているのでしょうか。