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日本の「資源」としての「完全主義」


2016年2月15日
遠藤哲也


先日、来日した「帝国以後」などの著作で著名なフランスの文化人類学者エマニュエル・トッドが、ある番組に出演しているのを目にしました。その中で、正確な表現は記憶していないのですが、おおまかには「日本人は完全主義的だが、それは良い所でも悪い所でもある。移民を導入すると社会の秩序は崩れるが、日本人はもう少し完全主義を弱めた方がいい」といった主旨の発言が耳に残りました。トッドのその主張の明確な論拠は示されませんでした。私は西洋知識人の御託宣的発言にも、それを好んで聞きたがる、少なからぬ日本人インテリの態度にも、あまり好意的な印象は持てないのですが、局側の編集もあり得るので、トッド個人の主張についてはこれ以上論じません。面白く感じたのは、トッドも移民の受け入れが既存の社会秩序を崩す方向に作用するという認識を持ってはいるのだなということでした。

日本人は完全主義的というのは、昨今の来日観光客にもしばしば見られる認識のように思いますが、個人差はあるにせよ平均的には確かに、日本人の仕事は(論理ではない)多くの点できちきちして配慮が行き届いていると言ってよいでしょうし(例えば、訪日外国人は、安価な大衆店に入っても高級店のようにきちきちした接客があることにしばしば驚きます)、それを「完全主義」と外国人が評すのはわからぬでもありません。この「完全主義」を裏打ちしている自己抑制性は、人間以外の生物にはできない所作であって、文化としての成熟を示す一つの指標であろうと思うので、このきちきちを非人間的なものであるかのように見なす主張には賛同できません。

そして、もっと大事なことは、時に窮屈ではあったとしてもきちきちとして生きる日本人の態度が、この国の現在の豊かさの礎となっているということです(予定調和など、独特の問題もあるのですが、それは別問題として過去に論じてあります)。一例を挙げれば、ネットを見れば日本の宅配業者への様々の苦言が個人ブログなどに書かれていたりしますが、それらの非難は基本的に日本国内の基準に基づいて行われています。ところが、海外在住の日本人が在住先国の宅配業者について悲鳴にも似たクレームを発しているのもまた多々見られるのですが、その苦情のレベルは日本国内で批判を受けるような業者の仕事も「グローバルな基準」から見ればトップ水準のサービスを提供しているのだと理解できるようなものです。週末だろうと酷暑だろうと、一日のほんの二、三時間程度の幅の指定時間のうちに、かなり高い確度で業者がちゃんと集配にやってきてくれる―それは働く側のマインドが、所与できちきちしているのは無論ですが、受け取る側も指定した時間には概ねの人がきちんと家で待っており、また、交通ルールも守られ、比較的路上駐車も少ないという背景があるのであり、ひいては秩序に基づく物流の効率性がまた日本の様々なビジネスの礎になっているのだ、ということに私たちは思いを致すべきでしょう。その意味で秩序は日本の「資源」だと言えます。「グローバル化推進」や「欧米のようになること」は、かつて拙稿で論じた「国際化強迫」にかられてきた少なからぬ戦後日本人には、所与で、より良き方向への展開だと思えているかもしれませんが、本当は「劣化」であるのではないという保障は何も無いと私は思っています。少なくとも、今ある秩序をわざわざ崩したほうがいいなどという言説は注意深く聞く必要があるでしょう。

追伸:私はこちらのコラムに書く機会は少ないのですが、宜しければ毎月の『海外事情』誌の編集後記もご覧ください。