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日韓関係を考える


2015年6月1日
武貞秀士


日韓関係がギクシャクしています。韓国は「加害者として日本人は反省が足りない」と言い、日本は「十分に反省し、補償したのに」と言います。しかし、加害者と被害者の関係を明確にしても日韓関係改善は始まりません。13世紀以降の日本と朝鮮半島の歴史は、攻めたり攻められたりの歴史です。1236年にモンゴルが高麗に侵攻したあと、高麗は再建のために1251年、高麗8万大蔵経を完成し、高麗再興の支柱にしました。それは世界文化遺産に登録されました。勢いを得た高麗軍が、壱岐・対馬・博多に上陸しました。この文永・弘安の役で日本には「日本に危機が迫るのは朝鮮半島から」という意識が定着して、その後、1592年と1598年、豊臣秀吉の軍が朝鮮半島に向かうという文禄・慶長の役が起きました。19世紀の国際社会は、「朝鮮半島を制するものは東アジアを制する」という時代です。日本は清国とロシアに勝利して1910年、日韓併合条約に調印し、朝鮮半島の発展に責任を負いましたが、1945年に戦争に敗北しました。

日韓関係を考えるとき、日本統治時代の1919年に起きた「3・1運動」は重要です。独立をかかげたデモが制止されたこの日は、朝鮮半島の人々にとり「独立を勝ち取る」という意識の原点となりました。1948年の大韓民国建国のキーワードは「3・1運動の精神」です。独立運動を規制された経験が建国の精神となり、日本に勝ったという印を求めることは、韓国人のイデオロギーとなったのです。

その後「戦勝国の地位」を要求する韓国には、二度のチャンスがありました。李承晩大統領時代の1951年、サンフランシスコ講和会議のとき、韓国は戦勝国としての地位を求めて対馬と竹島を韓国領とすることを米国に要求しました。次は1965年の日韓基本条約締結のときです。朴正煕大統領は、日本から8億ドル(有償・無償・民間)を導入して国家建設を始めましたが、このときも、韓国では戦敗国の日本からの経済支援としては不足であるという反対運動が起きました。

いま、日本と韓国は、教科書記述、靖国参拝、竹島領有、慰安婦問題、世界遺産登録問題で対立したままです。韓国が妥協できないのは、朴槿恵政権には「日本に勝つ」という三度目の機会が到来したと見えたからです。そこには中国との戦略的パートナーシップ関係の発展、電子工業分野では日本に勝ったという経験からくる高揚した気持ちがあります。

北朝鮮の対日政策に「日本に勝たねば」という要素が見えないのは、抗日革命闘争を対日勝利と位置づけて1948年に建国したからです。「日本に勝った」という北朝鮮の民族主義と、「日本に勝たねば」という韓国の民族主義の違いは明白です。

金大中大統領の時代に日韓関係は大幅に改善されました。1998年10月、金大統領は国賓として日本を訪問し、日韓防衛交流の推進を約束しました。日本社会と日本人を知り尽くし、日本に知己が多かった金大中大統領の時代が日韓蜜月の時代であったのは偶然ではないでしょう。そこに日韓関係改善のヒントがあるように思います。