独立は一民族のものならず
2021年5月
丹羽文生
過日、東京プリンスホテルで開かれるセミナーに向かう途中、開会まで時間があったので、近くにある青松寺まで足を延ばしました。高輪の泉岳寺、台東区橋場の総泉寺と並ぶ曹洞宗の「江戸三箇寺」の1つに数えられる由緒ある寺院です。門を潜って境内左側に進んでいくと、そこにインドネシアの初代大統領であるスカルノから贈られた大きな石碑が建っています。
「市来龍夫君と吉住留五郎君へ 独立は一民族のものならず 全人類のものなり 一九五八年二月十五日 東京にて スカルノ」
17世紀頃、アジアの国々は悉く欧米列強の植民地にされ、インドネシアもオランダの植民地となりました。それは約3世紀半に亘って続き、この間、インドネシアはオランダによる圧迫、収奪、搾取に苦しめられました。
そんなオランダを駆逐したのが日本でした。第2次世界大戦中、インドネシアに上陸した日本は、僅か10日足らずでオランダを追い払って新たな軍政を布きます。インドネシアの人々は驚嘆と感謝を持って迎えました。日本は、将来のインドネシアの独立を見越し、オランダ語の使用禁止とインドネシア語の普及、郷土防衛義勇軍の設立と軍事教練の実施、インドネシア人の高級官吏への登用と、社会基盤の整備に努めました。
日本が戦争に敗れた2日後、大統領に就任したスカルノはインドネシアの独立宣言を行います。ところが、再びインドネシアを植民地支配すべくオランダがイギリスと一緒になってインドネシアに侵攻してきました。インドネシア独立戦争に始まりです。
しかし、3年半に及ぶ日本の軍政により、インドネシア人は、これまでのような「従順な羊」ではありませんでした。オランダに敢然と対峙したのです。
この時、残留日本兵の多くがインドネシアの独立のために戦いました。市来龍夫、吉住留五郎もそうです。
市来は熊本県人で22歳の時にインドネシアへ。「日蘭商業新聞」記者を経て、陸軍第16軍宣伝班員となり、オランダから危険人物としてマークされながらも、インドネシアの独立派と親交を温め、日本が敗戦した後も、そのままインドネシアに残り、オランダとの戦闘中に42歳で戦死しています。
吉住は山形県人で、市来と同じくインドネシアに渡り「日蘭商業新聞」記者となり、その際、市来と知り合いました。オランダからの独立を目指すインドネシアの人々と一緒になって独立運動に挺身し、途中、オランダからの拷問に苦しみながらも、敵地工作に当たり、同じくインドネシア独立戦争に身を投じて、37歳の若さで病死しました。オランダによる拷問が吉住の身体を蝕んでいたのです。
市来はアブドゥル・ラフマン、住吉はアリフというインドネシア名を持つほどインドネシアに溶け込んでいました。スカルノにとって2人は、まさにインドネシア独立戦争を一緒に戦った戦友だったのです。
残念ながら市来も住吉もインドネシアの完全な独立を目にすることはできませんでした。しかし、天国からインドネシアの行く末を見守っていることでしょう。インドネシアは親日国として知られています。しかし、その淵源には、私たちの先人の血と汗の努力が存在することも忘れてはなりません。
丹羽文生
過日、東京プリンスホテルで開かれるセミナーに向かう途中、開会まで時間があったので、近くにある青松寺まで足を延ばしました。高輪の泉岳寺、台東区橋場の総泉寺と並ぶ曹洞宗の「江戸三箇寺」の1つに数えられる由緒ある寺院です。門を潜って境内左側に進んでいくと、そこにインドネシアの初代大統領であるスカルノから贈られた大きな石碑が建っています。
「市来龍夫君と吉住留五郎君へ 独立は一民族のものならず 全人類のものなり 一九五八年二月十五日 東京にて スカルノ」
17世紀頃、アジアの国々は悉く欧米列強の植民地にされ、インドネシアもオランダの植民地となりました。それは約3世紀半に亘って続き、この間、インドネシアはオランダによる圧迫、収奪、搾取に苦しめられました。
そんなオランダを駆逐したのが日本でした。第2次世界大戦中、インドネシアに上陸した日本は、僅か10日足らずでオランダを追い払って新たな軍政を布きます。インドネシアの人々は驚嘆と感謝を持って迎えました。日本は、将来のインドネシアの独立を見越し、オランダ語の使用禁止とインドネシア語の普及、郷土防衛義勇軍の設立と軍事教練の実施、インドネシア人の高級官吏への登用と、社会基盤の整備に努めました。
日本が戦争に敗れた2日後、大統領に就任したスカルノはインドネシアの独立宣言を行います。ところが、再びインドネシアを植民地支配すべくオランダがイギリスと一緒になってインドネシアに侵攻してきました。インドネシア独立戦争に始まりです。
しかし、3年半に及ぶ日本の軍政により、インドネシア人は、これまでのような「従順な羊」ではありませんでした。オランダに敢然と対峙したのです。
この時、残留日本兵の多くがインドネシアの独立のために戦いました。市来龍夫、吉住留五郎もそうです。
市来は熊本県人で22歳の時にインドネシアへ。「日蘭商業新聞」記者を経て、陸軍第16軍宣伝班員となり、オランダから危険人物としてマークされながらも、インドネシアの独立派と親交を温め、日本が敗戦した後も、そのままインドネシアに残り、オランダとの戦闘中に42歳で戦死しています。
吉住は山形県人で、市来と同じくインドネシアに渡り「日蘭商業新聞」記者となり、その際、市来と知り合いました。オランダからの独立を目指すインドネシアの人々と一緒になって独立運動に挺身し、途中、オランダからの拷問に苦しみながらも、敵地工作に当たり、同じくインドネシア独立戦争に身を投じて、37歳の若さで病死しました。オランダによる拷問が吉住の身体を蝕んでいたのです。
市来はアブドゥル・ラフマン、住吉はアリフというインドネシア名を持つほどインドネシアに溶け込んでいました。スカルノにとって2人は、まさにインドネシア独立戦争を一緒に戦った戦友だったのです。
残念ながら市来も住吉もインドネシアの完全な独立を目にすることはできませんでした。しかし、天国からインドネシアの行く末を見守っていることでしょう。インドネシアは親日国として知られています。しかし、その淵源には、私たちの先人の血と汗の努力が存在することも忘れてはなりません。