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人格としての母語、道具としての外国語


2017年7月15日
遠藤哲也


以前、『海外事情』誌上で、日本人全体が長らく「国際化強迫」に捉われてきたと書きました。「ことば」についての国内での言説にも同様のものを感じます。「ことば」そのものの言語学的意味や人間にとっての重要性に注意が向けられることは少なく、国語と外国語を同列に置いて語るような教育論も見られるようです。

「第一言語」という言葉がありますが、多くの日本人にとって、日本語は「第一」「第二」と並べるようなものではないでしょう。通常、「母語」とそれ以外の言葉は決定的に異なるからです。母語とはそれを使う人間の人格の重要な一部です。人間はことばが無くては、思考したり、抽象的な事柄を認識したりできず、通常、人の思考は母語に圧倒的に依存しています。

言葉には、その言葉が直接表す意味(語義)以外に、その語が纏う言外のイメージ、それを使うに適正な文脈、また、文脈による語義変化などの要素がありますが、辞書はその語の代表的語義を示してくれるだけです。人間は、母語に関するこうした複雑な知識を、能動的な学習によってでなく、乳幼児期からの生活の中で、ごく自然に身に付けていく驚異的な力があります。ですから「私が」と「私は」の違いを述べよ、と言われても多くの人は言語化することができません。そして、このような自然な言語習得能力は小学高学年頃から低下してしまうようです。

一方、人間が能動的に学習する非母語・外国語は全く意味が異なり、それは基本的に「道具」でしかありません。そして、母語の語彙と外国語での対応翻訳語は普通、イコールではないので、無数にある語彙について、母語との差異を把握しつつ、語義の多重性、言外イメージなどの正確な語法・語感までを完全に習得するなどということは、母語を媒介にした能動学習によってでは、およそ不可能と思えます。初歩の記号論を学んで、言葉に伴うこうした事実に意識が向いたなら、慎重で非楽天的な性格の人は、外国語の使用に逐語的に戸惑いを覚えてしまうかもしれません。

ただ、道具は道具に過ぎません。毎日、のこぎりが必要な人もいますが、一生、使わない人も居ます。また、弓の達人だが、刀槍はからっきしという武士が居たであろうように、人間には適性というものもあります。聴解力に関しては、通常の知識と論理の学習と異なり、耳と脳による音声認識の問題ですから、通常の勉強の学力が高い者が、これも得意とは限らないのは、高学歴の人なら歌唱や聴音も得意だとは言えないのと同様でしょう。つまり、努力して一定の時間をかけて勉強すれば、誰でも外国語が流暢に「話せる」と思うのは神話と言うべきです。そして言語学習は多大な時間と労力のコストを伴うので、当然に費用対効果の斟酌も行われるべきです。道具は必要な人、適性のある人が使えばよく、皆に同種の道具に熟達させようとするのは、個々の才を伸ばし活かす機会を奪います。

しかも、本来、人間の言語能力において、「読み書き」と「聞く・話す」のどちらがより知的な営みに通じているかは、「識字率」という語の存在を想起すればわかることですが、なぜか日本では、正書法に基づく「読み書き」を劣位視して、実用英語力の低さを嘆いてみせるような言説が繰り返されてきました。日本はその間も一貫して世界中とちゃんと取引して、繁栄をし続けてきましたし、ネットによる輸入や交信が一般化した今時では、寧ろ読み書きの方が実用的ではないかとも思うのですが。

前記のように、一般的には、能動学習による他言語の完全な習得はまず不可能なものですから、母語で九割程度は口頭表現できる事柄でも、非母語で語れば多くの人は、より低い精度で語ることになります。これは話者本人に認識が無くても、時に大きな不利・不利益であり、母語の使用の可不可がしばしば民族対立の遠因になる所以でもあります。まして学問などある種の社会分野では、そもそも平易ではない論理を最高精度の言葉で表現することが要されますから、非母語への変換は相当高度な能力を要すものとなり、そう安直に為し得るものではありません。何となく通じればいいというのは旅行会話の話です。

前述のように外国語の会話力は音感と同様、かなり適性や生育環境に依存したものなのですが、道具としての外国語を高みに置いて格付けの指標にするのは、旧植民地諸国の一部エリートが宗主国言語に関して見せるような態度で「言語帝国主義」と呼ばれます。今日の日本でもそれに類した言説が時折見られるほか、「コンプライアンス」など、日本語で平易に言えることをわざわざ難しい外国語で述べて見せるような母語の蔑ろ化も官民で見られるようです。初歩の言語学・記号論を、高等教育の中で必修化すべきであろうと常々思う所です。