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ウクライナ情勢より想うこと


2014年5月1日
遠藤哲也


新年度を迎えて桜の花のシーズンも過ぎ、新緑の関東地方は一年で最も気候が良いと言ってもよい時期を迎えています。拓殖大学でも学部・大学院の授業が始まって約一カ月が経ちました。

しかし、日本が穏やかな春/初夏を迎える中、世界各地では問題が噴出し、そのうちの幾つかは日本にも大きく関係しています。その一つである混迷のウクライナ情勢についても、ここまでの事態になると予想していた人は多くないはずです。九○年代のユーゴ紛争でも、その数年前まではセルビア人、クロアチア人の武力対立など同地の大半の国民さえ予想していなかったでしょう。日本人から見れば、両者の間には言語でも文化でも大きな差があるようには見えないのですが、それでも、二つの民族間には統合は起こらず、多文化併存状況には何らかのストレスが潜在していたようです。民族アイデンティティには、独自の公共性が付随しており、それは決して幻想などではなく実体的な意味のあるもので、何かのきっかけで敵・味方の境界線にさえなってしまうような危うい側面をも内包したものです。多文化主義が述べるような、一つの空間に複数公共性の併存はここでも達成されませんでした。

クリミアで、ウクライナ軍施設や地方政府施設などの要所を確保・占拠した武装部隊が、正規のロシア軍部隊/治安部隊であるか、地元の軍事訓練経験のある武装勢力であるのか、その両方なのか定かではありませんが、いずれにせよ、ウクライナ国民の中には、かなりの数でのロシアの介入への誘引・呼応者があったと思われます。

日本においては、「開国」論に代表されるグローバル=善、ナショナル=悪という、あまり深く考察されたとは言い難い単純イメージだけに基づく言説が増大していますが、近代国家が適切に機能しようとすれば、その内部は必ず「ナショナル」な公共性で統合されていなければなりません。紛争後の途上国で半ば強引に行われる選挙では、しばしば露呈してしまうように、ナショナルな公共性が成立していない国では、人々は自分の主たるアイデンティティである部族や民族の候補者に投票し、結果として部族・民族の人口比が概ねそのまま議席数比になります。このように国民がナショナルな公共性を最優先にせずに、国内のサブ集団である自民族・自部族のそれを最優先にして政治行動をとるようでは、近代国家は機能し得ません。まして、今回の事案のように、地方自治政府や一部市民・軍人が、外国の戦略意図と呼応関係を持つようなことがあれば、もはや国家の根本的基盤すら揺らいでしまいます。ですから、人のグローバル化などと言われても、ある国の市民になる人は、資本主義市場原理のみに基づいて移動・居住するのでなく、その国の公共性を最優先し、その国よりも出身国やその他の外国の利益・安全・政治的立場を優先させるようなことは無いということを最低限の義務として担ってくれる人でなければなりません。

国際人口移動の問題は、単に、税収不足とか、先進国水準とか、人のグローバル化とか、そのような大雑把な理屈や根拠薄弱なイメージ論だけで決められるような問題ではなく、こうした公共性及び政治・安全保障的な点からの慎重な熟考が必要であるということ、この点は政治家は無論、国民全体にもよく心得てほしい、そんなことを国家・国民分裂の憂き目を見ているウクライナを見ながら思いました。